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塾長ブログ・お知らせ

勉強を避けたがる子供の心理

【結局は、逃げるか逃げないか】

学者塾の利用方法は? 答えは極めてシンプルです。それは当然「成績を上げる為」に他なりません。様々な形態の学習塾がありますが成績に成果が出ていれば何の問題もありません。

集団、個別指導様々ありますが、通塾による成績の向上は当然の結果であるべきなのです。

しかしながら、真面目に塾通いしていても成績に変化のない事例も見受けられます。「真面目に通っているから家ではしなくていいだろう」「メニュー通りテキスト(問題集)をしているから大丈夫!」「宿題だけはちゃんとやっている」等々。

これで成果が出ていれば問題はないのですが、成果が出てない子どもたちには幾つかの特徴があるのです。

 

(1)「真面目に通っているから家でしなくてもいいだろう」→自宅での自由な時間の確保のため通塾を利用。

塾に通うことで自宅学習をしなくていいという考えが無意識の中で芽生え、塾が「隠れ蓑」になっている。

(2)「メニュー通り、指示通りテキストをしているから大丈夫!」→いい加減な答え合わせ。

やっている感は出すが間違えた箇所、疑問点には触らない。周囲からも見た目だけはやっているようにみえるので本人からも「大丈夫!」という言葉が出てくる。

 

(3)「宿題だけはちゃんとやっている」→出さないよりはましだろうと自分に言い聞かせ納得しようとしている。

やはり間違えている箇所、疑問点には触れない。「提出すればいい」が目的となっており、勿論学力は付くはずもない。

テスト前など期限の迫った大量の学校の提出物を解答をほぼ丸写ししただけなのに赤丸、青丸を適当に散りばめ「キチンとやった感」を醸し出す提出物の作成は上手い。

そんな作業で勉強した気分になっている、、、、。とはいえ提出はするのであながちそれが間違いとも言えない為、その部分は強くアピールする。「僕は(私は)ちゃんとやってるから!」と。

 

(4)「自分は部活を頑張っている、勉強もいずれ頑張れるはず」→したくない(面倒くさい)勉強以外を頑張る事で勉強を後回しにしている。

「テスト範囲表が出たら頑張る」「テスト1週間前で部活が休みになったら頑張る」というように「~~したら…する、~になったら…する」をテスト毎に言っている。

 

(5)「勉強以外はキチンとしています!」→『普段の挨拶、生活態度など好印象、部活も一生懸命、友人関係良好(それぞれ誠に素晴らしいことであるが)』を盾に、だから勉強はしなくてもいいのではないかと勝手に納得している。

何かをキチンとしていたら「勉強の出来は多めに見てくれるだろう」という根拠のない期待を自分に言い聞かせるようにして勉強を避け続ける。人としては非常に好感は持てるが、こと勉強に関しては意地でも努力したがらない。

 

(1)~(5)に関して、2つの共通点があります。

 

まず一つ目は「親の目もごまかせる」ところです。塾も行ってる(行きたくないとも言わない)、提出物は出してるし、宿題もやってる。つまり「自分はやっているアピール」ができているのです。そしてそれを言い訳にして自分を甘やかすこともできる、、、。当然「塾に行く意味」など理解していない。

親にしても、不十分とはいえ一見やることはやっているようにも思えるからあんまりきつく突っ込めない。子供はそれも計算済み、、、。

二つ目は、「核心」に触れられたくないという気持ちです。「核心」とは、一言では表現し難いのですが「勉強はしなければ。勉強ときちんと向き合わなければ。」という極めて真っ当な考えを持っているのに自ら蓋をする、勉強の重要性は理解しているが「今はまだしたくない」といった心情です。

 核心に触れられたくないとは、勉強に対して「やらなければ、やってみよう」という気持ちを持つ(覚悟)が嫌なのか、面倒なのか、勇気がないのか、いずれにしても同じ「逃げ」の心情です。

 その心情が先に述べた(1)~(5)のような発言や行動に表れているのです。

 しかし先述の真っ当な考えを持っていて「自ら蓋をしない」「敢えて現実を見てみよう」「勉強嫌だけど、やってみよう」という気持ちが出てくれば、すなはち『今やるべき事から、逃げるのか、いや逃げずにやってみるか』という気持ちを引き出せれば状況はいくらでも好転するのです。

 学習塾で、学習内容を指導するのは言わば当然のこと。その前に塾が、いや我々大人がやるべきことは、勉強から逃げようとしている子供たちから「逃げない」気持ちを引き出すこと、そのきっかけを模索し続けること。

いつの時代も〈勉強の方法論〉、〈やる気の出し方、出させ方〉は重要なテーマであり、たくさんの学者や先生方が述べておられます。

そしてどれも正論であり大正解です。

なぜどれも正解なのか、、、。どの方法論も「逃げなければできる」ことを謳っているからです。